After Covid-19, 2020-05-25

近況

これを書いているときは、東京・東京近郊で新型コロナ緊急事態宣言が解除される前夜。正確には午前0時から解除らしいので、もはや緊急事態ではない。

あとで自分が見返すために、近況をメモしておく。

新型コロナ感染者数は東京都のサイトでチェックしていたけれども、ここ最近の新規の感染者数は10人前後くらい。一方で、徐々にオンサイトへの通勤を開始していた所感では、5/11の週では朝の山手線、京浜東北線で人と人が距離を空けて座ってもまだ余裕があったし、夜も多くの人が座れる状態だったのに対して、5/18の週では日々通勤者の数が増えており、新型コロナの潜伏期間が2週間ということを考えれば、6月初旬にも第二波が始まるのでは、と思っている。

自分が属しているTwitterの写真界隈では解除の機運が高まるに連れて、暇を持て余してタイムラインに張り付いていた人が徐々に減っているのかもと感じると同時に、地方が先に解除されたのもあって、写真関連のタグで新しく撮ったと思われるような写真や前向きなコメントを添えて放流された写真が増えていたのでは、と感じている。人々の気持ちが前向きに動き始めたのかもしれない。6月中のスケジュールを公開して撮影を再開している人も徐々に増えている様子。商業的な撮影会なども徐々に動き始めるのだろう、と想像している。

近況ここまで。

「自粛期間中」を振り返る

いわゆる「自粛期間中」は、在宅で仕事をしつつも、一方で今までの写真活動とこれからの写真活動について、同じことを考えては考え直す、をただひたすら繰り返していた。

今日のタイミングで思っていることは「撮影がしたい。人の写真が撮りたい。」ということ。一方で、今まで撮っていた写真と同じものを撮り続けても仕方がない、という思いが強い。そして、前述の第二波への懸念もあって、具体的な撮影予定を組むには至っていない。Twitterに新しく撮られた”良い感じ”風の写真がどんどん放流されているのを見るたび、この気持ちは大きくなっている。

毎日花の写真を撮ってアップしたり、カラーコーンを探してInstagramのストーリーを連日更新したりした。コツコツと同じことを積み重ねることが出来なかった自分がそういうことをできるようになれた、ということに成長を自覚した。大人になったなぁ、と。

今回の事態で、日本人の本音に触れた気がします。(中略)また「自分ではない誰かがしてくれる」気持ちが強い。サービスが整いすぎているのが日本の弱さで、知恵や能力を使う機会がなく、自ら考えて動くのが苦手で他責傾向がある。ただ、わかっているのは、この問題は誰かが解決してくれるものではないということです。

私たちはこの先もウイルスと生きていかなければならず、それに対応する強い社会基盤をいかに持つかが重要です。この機会に、他人がやってくれないことを前提に個人の能力を上げ、自分自身や地域でやる覚悟を決めて、人と連帯感を持つしかないと気づけば変わっていくでしょう。

アフリカ出身・京都精華大サコ学長 コロナ問題でわかった「日本人のホンネ」

はっきり言う。前述の「新しく撮られた”良い感じ”風の写真」のうち、仕事ではなくプライベートで撮られたものについては、自分の頭では何も考えていない、考えるつもりがない人から先に動き始めた所産として受け止めている。もちろん、全てではないだろうが。

それを見て静観をする人とでバランスが取れれば良いな、と楽観的に願うばかりである。

手の届く範囲のものを、北区で撮る

センスの良い写真、お洒落な写真、綺麗な風景の写真、珍しい瞬間の写真。S N Sでキラキラして見える写真はたくさんあるが、結局は自分の生活と写真をなるべく密接なものにして、自分の身近なものを、手の届く範囲のものを撮らなくては本質的なものは何も撮れない、と考えている。

だから、写真の中心地を自分の住んでいる場所にしなくてはならない、と思い立って、今年の最初にこの団地に引っ越してきた。

その割には、自分が住んでいる団地から出発してよその団地を撮りに行く、と言う訳の分からないことをやっていたなあ、と素直に反省。

飽きるまでこの団地で、北区で、何もない風景で写真を撮り続けて、飽きたら引っ越してまた次の写真をやれば良い。

自分のフェチに向き合う

1年前の自分は、SNSでよく見る写真って、笑えない写真が多いなぁーと思っていて。

特に若い女性の”性”を切り売りしている、タダ売している写真が、特につまんななぁーと思って見てて、とにかく見てて悲しくならないことをやろう、をスタートにしたいと考えていた。

それは達成できたけど、一方で、自分の奥底にあるドロッとした感情を完全スルーした写真は、片手落ちの状態で勝負している感じがしてて、勝ち負けには興味がないとはいえ、その状態で参戦している意味がよく分からない、という葛藤があった。

結局、良いものが撮れるのは自分が「好き」と心から思えるものだけなのだから、もっともっと自分のフェチに実直に向き合っても良いだろう、と考えている。

”密”な距離で写真を撮る

残念ながら引用元がツイ消しされてしまった。

1人の人を調子が良い時も悪い時も含めて、1年くらいまるっと追いかけて、月1くらいのペースで定期的に撮って、それを1冊の写真集にまとめられたら良いなあ、と。

シャッターチャンスのない、ゆるッとした時間の流れを記憶する写真で構わないし、かっこいいことやりたい!っていう欲求ができた月は、突然どっかのスタジオで撮った写真が入っててもいい。逆に、ただ酔っ払って座り込んでるだけの写真の月があってもいい。

方向性としては、撮る/撮られる2人に流れる関係性を”密”にしたい、というか密じゃなきゃ撮れないじゃん、という方向に全振りして、こんなめんどくさいこと言う人は嫌だ、と思われて新しい依頼がぱったりこなくなるし、こっちの依頼も断られる、くらいの形を目指したい。撮影回数、人数はぐっと減っても構わないし、それでもむしろ残り写真がたくさん撮れる予感もしている。

この”密”と言うのは”写真のために”と割り切っている私の人間ぶっていながら人間性が欠落している部分がフルに発揮された発想で、恋人関係を撮るのではなくて、撮影関係(そんな言葉はないが)の独特な緊張感を保ちつつも撮りたい、その人との間に流れる時間を、変化を切り取ってまとめたい、と言う欲求だ。

徐々に緩む心と縮まる距離、他人にあまり見せることがない顔、本人も知らなかった顔。それらが次第に明らかとなっていく姿。生き様。そんな行為に興味を持つ人が撮られる側として現れてくれたら面白いことになりそうだ、と思う。

写真の新しい見せ方、リモート写真展

また、SNSに写真を載せる行為を心の中で「放流」と呼び、毎日新しい写真が現れては見えなくなって行く様を「流しそうめん」と呼んでいたのだが、一方で、自分自身が、そのそうめんの流し手に甘んじていたことを反省。

写真を売って儲けたい、と言う気持ちはないがスマホのちっちゃい画面で見るよりも印刷物はいいぞ、と言うのは伝えていきたい。印刷代オンリーの本というのは、ギャラリーに行く交通費よりも安く写真が手元で見れるというリモート写真展のようなものを意図していて、その新しい選択肢を提供してみたい。

Twitterで誰かの写真を振り返ってみる行為は本当に面倒で見にくいし、全体像が全く掴めない。Instagramも単テーマならまだしも、ごちゃごちゃしやすいという意味で同様。と思うのなら、自分なりのアンサーを示そうと、このサイトを利用して模索していきたい。

自分を見つめる、向き合う

創作の核の活動を”誰か”のするのではなく、自分を見つめる、自分が大切に思う人にすると言うこと。当たり前のことを疎かにしていた、向き合うことを避けていたと思い直し、手始めに「なぜ写真を撮るのか」の話をフルストーリーで更新、公開してみた。

書き直してみたこのストーリーは、試し読みを依頼した3人中2人に距離(今風には「ソーシャルディスタンス」)を置かれてしまった、と言う点で力のあるものを書けた自己評価している。一方で、”密にしたい”と言う活動を達成するために正しく人との距離感を保つのは難しい、少なくとも自分には、という問題も感じているが、何とかしなければならない。

新しい世界にて

村田兼一さんがブログ上にコロナの私的記録を残していたのを見て、ああ、忘れずにこの感情を書き留めておかなければ、と思ったものの日々を写真に残すのが精一杯で、コロナ中の記録はTwitterのつぶやきのみになってしまった。が、だからこそ今日の思いくらいは残しておこう、と思った。

仕事も変わらないし、今すぐ生活に困窮するということもなく暮らしていたけど、いや、だからこそ、新しいウイルスにより人がたくさん亡くなり、社会の仕組みが変わっていくという姿を、少し距離が離れていたところから見ていて、非常にショッキングな出来事に感じていた。

最後に。いま思い出しているのは、このプーチンの言葉。

「ソ連が恋しくない者には心(心臓)がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」

ウラジーミル・プーチン(2000年)

Covid-19以前の世界は平和で懐かしい。でも、世界の崩壊に直面して、新しい表現活動を始めようと思わないのはいかんな、と心から感じている。

内容、方法論。すべてにおいて、今までの延長線上ではなくて、今までやってきたことを下敷きにして、自分なりに何か新しいことをやっていきたい、と思う。

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